ガラリアさん好き好き病ブログ版

ここは、聖戦士ダンバインのガラリア・ニャムヒーさんを 好きで好きでたまらない、不治の病にかかった管理人、 日本一のガラリア・マニア、略してガラマニのサイトです。2019年7月、元サイトから厳選した記事を当ブログに移転しました。聖戦士ダンバイン以外の記事は、リンク「新ガラマニ日誌」にあります。

小説「月下の花」バーン・バニングスについて

バーンは、当然、筆者のオリジナルではないです。原作=『聖戦士ダンバイン』と、本編=『月下の花』のバーンについて、考えていること、あれこれを書いてみます。

 

【原作と本編】

本編『月下の花』のバーンは、女主人公ガラリアに対して、男主人公の位置にあります。拙著を御購読して下さっている方々には、既にお気づきと、希望的観測をしておりますが、

『月下の花』は、ガラリアとバーンが、最も強く、愛し合っているにも関わらず、長年に渡り、「自分は好かれていない」と、カン違いし続ける様子を、書こうとしている小説です。

これのモデルは、当然、原作のガラリアとバーンです。筆者は、TVの第1話を見た瞬間、「ガラリアさんは、バーンが好きなのだな」と思いましたし、製作者が意図して、それを演出していることが、よくわかりました。そして、バーンが、一番気遣っている女性も、リムルではなくて、ガラリアだと思います。

ダンバインの解説本は、ガラリアの恋愛遍歴について、トッド・ギネスとゼット・ライトについてしか、言及されていないものが、ほとんどですが、筆者のような、エコヒイキ目で見ていないと、気がつかないのかも、しれません。しかし、声優さんの演技に、台詞にしないセル画の演出に、

非常に、丁寧に表現されています!

さりげなく、そして激しく、ガラリアはバーンをこそ、一番男性として愛していること、バーンが、一番大事に思っていた女性も、ガラリアさんその人だと。でも、すれ違ってしまう。仲たがいしてしまう。

ガラリアは、恋するバーンが、リムルと婚約した辛さ、失恋の辛さを補填するために、職務上は、バーンへの激しいライバル意識で、対抗しようとしているようです。(対抗している相手は、バーンを追ってしまう自分の恋情なのですねぇ。彼女が、バーンに敵意を燃やすのは、振り向いてもらえない悔しさから…わかる、わかる。)

第4話で、ドレイク&エツに、ぶん殴られた時の、ガラリアの切ない表情に、注目して見て下さい!明らかに、バーンとリムルに嫉妬の炎を燃やしています。そして、代替えの恋愛対象として、トッドやゼットを求めてしまう…女の子ですから、優しくしてくれる男性の方に、甘えたくなりますからねえ…

たまにはエッチもしたいですからねぇ!

この際ゼットでもいいか、てなノリですわ。

そして、内心、カワユイと思っているガラリアを、トッドみたいなもんに盗られたと憤るバーンは、

「わたしに報告するのが先だろうッ!!」(第12話)

なーんてプリプリ怒って、ジェラシー丸出しです。

以上が、原作アニメの2人。これを曲解し、ふくらませ、妄想すること、20年。

もぉ、どーしよーもなく、カン違いし続ける、ガラリアとバーン。
でもホントはラブラブなの♪
…あぁッ、もどかしいぃッ
もういいからとっととやっちまえよ!
ひたすら、バーン×ガラリア!!

この基本設定に基づいて、書いているのが、『月下の花』です。

 

【バーン・バニングスという男性像】

ガラリアという女性を、最も愛する筆者は、男性キャラではバーンを、最も愛しております。だから、いじめます。もっと、不幸に。もっと、悲惨に。もっともっと幸薄くと。第10章の、ケミ城戦以降、バーンへの筆の重さは増すばかりでして、すっかり、バーン主人公になってる感じ。

【第14章に登場した、バーンの両親】

バニングス家の当主であるバニングス卿と、バーンの母ハリエットは、後々、ストーリーの重要な部分に絡んでいく予定~です。バーンにクリソツな、お父さん、バニングス卿は、ルフト領内に広大な領地を持つ、ドレイクの古い戦友。つまり、ドレイク軍にあっては、政治的に強大な存在のはず。なのに、参謀職を辞してます。高齢とは言え、まだ60代、シャキシャキに元気なのに、引退・蟄居しているのは、なぜなのか。このへん、伏線であります。

引退の理由、表立っては、
「息子が一人前になったのだから、老兵は口出しせぬが良いのだ」
と、ドレイクやバーンには、言っているらしい。今後の、バニングス卿の動向にも、注目したい筆者であります。

バニングス卿は、1人息子に、厳格な騎士道精神を、厳しく教えてきた男。バーンの人格形成に、この父親の存在は、圧倒的影響を与えたと思われます。その父親に、反発を感じながらも、性格もソックリになってしまうのが、子供というもの。顔だけでなく、性格も、バーンは父親ゆずりな男になりました。

バーン・バニングスは、原作アニメでも、バイストン・ウェルの騎士のお手本、戦争が物量戦になっても、ひたすら騎士道を追求していく、生粋のバイストン・ウェル騎士として、描かれていました。

筆者も、この「騎士道精神」は、本編当初から、バイストン・ウェルの基本理念として、詳細に描写したいと考えてきました。この精神論の在り様は、とりもなおさず、地上人と、バイストン・ウェル人との、考え方の違い、両者が交わることによる、両世界の激変をまねく事になるでしょう。本編(恋愛エロ小説)におけるそれは、ガラリアをめぐる、男同士のいさかいとなるでしょう。

バーンという男性は、西洋的な紳士の面と、日本的な古武士の両面を併せ持ちます。紳士であれ、サムライであれ、という教えは、父親からのもの、表面的な礼儀、行為を支配する<恣意>であります。

一方で、恣意ではない彼の<感受性>は、母、ハリエットの優しさを受け継ぎ、性根は至極、優しい男に成長したようです。バーンは心優しき母を強く愛し、また、愛する家族と、穏やかに暮らす生活が、人にとって大切である事を知っています。それを、体現して、バーンに教えたのが、母、ハリエットなのでしょう。彼の、母親への憧憬の強さは、女性への執着の強さを生み出します。(この点が、本編のバーンと、原作のバーンの、最も大きな相違点であります。)

バーンの優しさとは、自分の大切な人、特に女性は、自己犠牲を払ってでも守るという心意気。現代人が失いつつある、男性の美徳を完備した人であります。

<恣意>と<感受性>、この両面は、互いに結びつき、時に相反し、一個の、バーン・バニングスという人格を形成していくことでしょう。

バーンが、精神的に、激動させられた存在、アトラスは、バーン自身が、求めていたものを、2つとも、持ち合わせた男でした。2つとは、上記の<恣意>と<感受性>即ち、<完璧な騎士>と<愛する女性からの愛>であります。

筆者は、主人公ガラリアとバーンとが、アトラスとの交流によって、恋に目覚め、愛に目覚めてゆく姿を書こうとしました。バーンにとっては、自分が求めていたものはなんだったのか、それがガラリアであったことを、人生初めての挫折と供に思い知らされました。第10章、ケミ城戦で、勝者はビショット軍、バーンも「勝ち組」の方でしたが、バーンは負けました。この戦功を評価され、出世しましたが、バーンは常に、自分は勝ったのではない、負けたのだという挫折感を抱き続けています。

表面的、つまり戦士としては「勝った」。でも、男として、人としては、「負けた」。これを自覚した時、人を殺した罪に涙した時、バーンは、ひとつ、「大人になった」のだと思います。

バーンは、ガラリアに対して、自分から愛を告白する事はない、できないと考えています。ケミ城戦の、アトラスとの闘いから、彼はそう考えましたが、はたしてそれは、正解なのでしょうか?死したアトラスへの敗北感、自分が死なせた罪悪感から、ガラリアに、素直な気持ちでぶつかれないと考えるならば、筆者は、それは間違いであると思います。バーンの眼前の敵は、常にバーン自身のプライドであり、プライドは<恣意>と<感受性>の相克により生まれるもの。ならば、バーンは、自分の敵に、まだ立ち向かえていないのです。

彼が、今よりもっと、大人になれたら。負ける事は、恥ずべき事でないと、わかる日が来た時、自分の弱さにうち勝つ事ができる日が、来たら。彼は、ガラリアに、素直になれるのでしょう。ガラリアの胸にすがって泣けるのでしょう。

「わたしは、寂しい。わたしは、苦しい。君への愛ゆえに」と、彼女に、訴える事ができるのでしょう。
ガラリアは、待っているのにね。バーンがそんな男になってくれる日を。

第16章より、多数のライバルたちが、またもやバーンの前に現れます。地上人や、バイストン・ウェル騎士たち。

バーンの、「自分との闘い」は、まだまだ始まったばかりです。

がんばれ、バーン・バニングス。

筆者は、君の苦しむ姿が、もっと見たいのだ!

 

2004年5月10日