ガラリアさん好き好き病ブログ版

ここは、聖戦士ダンバインのガラリア・ニャムヒーさんを 好きで好きでたまらない、不治の病にかかった管理人、 日本一のガラリア・マニア、略してガラマニのサイトです。2019年7月、元サイトから厳選した記事を当ブログに移転しました。聖戦士ダンバイン以外の記事は、リンク「新ガラマニ日誌」にあります。

聖戦士ダンバイン第1話 聖戦士たち(前編)バイストン・ウェル出現

【総評】ガラリアさんが、この世界に現れた、奇跡の瞬間。

 

ガラリアさんカワユイ度 ★★★★☆
バーン天然ボケ度 ★☆☆☆☆
ショウ君学力低い度 ★★☆☆☆


夜の街。倉庫風の建物、暗い屋内に、バイクが格納されている。そこへ、フルフェイスのヘルメットにツナギ姿の男が、登場。おもむろに、その本田技研製のバイクに乗り、発進させる。主人公らしき、その男のいでたちと、ホンダと、遠来の自動車の走行音が、ここが、現代の日本であることを、表現している。

これが、稀代の名作アニメ「聖戦士ダンバイン」のはじまりである。

時は、1983年。

2006年の今日、DVDという媒体で、この番組を見返すにつけ、この優れた番組の、本放送を見ていた世代でよかったと、つとに思う。

筆者は1969年生まれ。ダンバインの第1話を、中学校の放課後、授業が半ドンである土曜日の夕方、制服姿のまま体育座りで、自宅の居間で見た。ホンダに乗った主人公、ショウ・ザマと、初めて出会った、あの時の、自分。この文を書いている、今の自分。時は、止まらず流れ、ダンバインを見る、自分のまなざしも、けして止まらず、今日も、明日も、育ちゆく。

言うまでもないが、「聖戦士ダンバイン」は、地上波の全国放送だった。1983年は、アニメブームの真っ只中。テレビをつければ、朝から晩まで、アニメの本放送と再放送ばかり。自分が生まれる前に本放送だった、著名なアニメ作品群も、頻繁に再放送されていたから、日本中の少年少女が、同じアニメ番組を、共有の話題としていた。それが、その頃には、当たり前だったのだ。

2006年現在、アニメの話題作は、少なくはないとは言え、新作は、有料チャンネル専用番組だったり、ネット配信だったり、映画化のちDVD化であることが多い。地上波ゴールデン枠は、幼年向けアニメがほとんどだ。「聖戦士ダンバイン」のような、10代以上の青少年向けに作られた、先鋭的なアニメが、ふとつけた民放に映し出される光景には、滅多にお目にかかれなくなった。あったとしても、
「DVD化されたら、気が向いたら、レンタルで見るかな?」

で、結局、見過ごされたりする。

聖戦士ダンバイン」本放送当時は、家庭用ビデオデッキが普及し始めた頃とはいえ、

「土曜日の夕方5時半は、サンライズのロボットアニメだ!」

と、ウキウキしてチャンネルを合わせる現象が、日本中に、あった時代だった。ダンバインも、ガンダムも、イデオンも、オタクだけが自室で見るものではなく、お茶の間のテレビをつけた全国民が目にするものだった。

近年、アニメは、視聴者が各々の好みで、番組を選ぶ時代になってきている。視聴する時刻も場所も、選択対象だ。それはそれで、合理的だとは思うが、地上波ゴールデンタイムに、こうもアニメ枠が少なくなるなんて、ダンバイン本放送当時には、想像だにしなかった俺は、一抹の寂しさを感じずにはいられない。ダンバインと同じ原作者、同じバイストン・ウェル世界の物語である、新作アニメ 「リーンの翼」 だって、土曜日の夕方に、週一で、テレビ朝日系列で放送してくれたなら、どんなにか、嬉しいことだろう。

俺は、自分が好きな、アニメにせよ、NHK大河ドラマ にせよ、自分だけが楽しめればいいとは、思えない人間である。自分と同じ好みの仲間内だけが、楽しめればいいとも、思えない。自分が「おもしろい!」と思った作品ならば、それがロボットアニメであれ、エロマンガであれ、一人でも多くの人に、これを観てほしい、おもしろさを分かってほしいと願う。エロはさすがに客層を選ぶだろーが、「聖戦士ダンバイン」ならば、本当におもしろい作品であるならば!年齢を越え、国境を越えて、おもしろさが伝わるものなのだ。
俺が好む「聖戦士ダンバイン」とは、観る者誰しもを、魅了してやまない、優れたエンターテイメントなのだと、俺は、全世界に向けて叫ぼう。

1983年当時、親戚の、小学校低学年の女の子が、それは上手に、

「♪みつめてごらんよ~ あなたのなかの ほうせきばこぉを~」と、歌った。彼女は、「ダンバインの、終わりのうたに出てくる妖精さんが、すごくきれい!」と、嬉しそうに語った。

ネット配信有料番組「リーンの翼」には、こういう視聴者がいないのが、残念でならない。OSなどの環境に依存しすぎる放送は、手痛い。これでは、限られた層しか視聴しない。富野作品の、バイストン・ウェルを、どうしても見たいと思う層しか。元来、アニメを観る者には、予備知識も富野史観も、なくていいというのに!リュクス・サコミズ王女に憧れ、主題歌を歌う、あどけない幼女が、いてくれないことが、俺は、寂しい。

さて、「聖戦士ダンバイン」の第1話は、主人公、ショウ・ザマが乗るバイクに、コカ・コーラのトラックが、からみだすシーンへと急展開する。ショウが乗ってるホンダには、よく見るとHENDAと書かれているし、トラックにも、コカコーラボトリングの社名は見えないが、まぎれもなく、ここは「現代」「日本」なのだという、絵による描写だ。

コカ・コーラ車に乗ってる沓田さん発言、

「そんなクルージングマシーンに乗るなんてよくないよ~」

クルージングマシーンの意味が、当時は分からなかったが、今も分からないが、(分からんのかぃいっ)主人公が、顔見知りの走り屋にからまれてるという状況は、よく分かるから、いいのだ。つーか、いきなり「クルージングマシーン」なんて言い出すトコが、グーなのだ。

迷惑行為されていたショウは、連中をまくため、バイクをジャンプさす。んで、瞬間神隠しに。沓田さん( くつだ、という読み方がわかったのは最近だ。これは内緒だ) たち、ビックリ。

「ハッ、き、消えた。」

「どうしちまったんだろう。」

ビックリはしているが、あまり動揺してない沓田さんたち。目の前で事故られたって、もっとビビると思うが。神隠しのような、フツーでない現象を見ても、さして動じない登場人物!これが第1話に共通して見られるおもしろさだ。

そしていきなり、若本ナレーションと、女の声のうた「♪あ~あ~あーあーあー」と、深海魚のウロコの光がぐねぐね。これが、芋虫みたいで、たいへん気持ち悪い。主人公は、アスファルトの道路をバイクや自動車が走る、「日常」から、一瞬にして、へんてこりんな別世界に落ちたのだ。若本ナレーションは、我々を異次元空間へといざなう「説明文」だ。

夜のお城の、中庭に落ちちゃったショウ。お城の窓から、ピンク色のおようふくの、紫色の髪の女の子が、こわごわ、落ちてきた彼を、見ている。

リムルたん登場だ。この時点では、実にカワユイ、見るからにお姫様だ。

この子がヒロインなんだなーと思ってしまったぞ。

こっからが、怒涛の説明的セリフたたみかけ、富野節で語られるバイストン・ウェル世界の出現である。んが、それはチョト置いといて。

聖戦士ダンバイン」の第1話は、現代人が、日常空間から、いきなり異世界に行ってしまうというシュチュエーションである。

同作品は、ロボットアニメに、ファンタジー要素を取り入れた、画期的な作品だと、評している記事をしばしば目にするが、1983年の、ロボットアニメの中においては確かに画期的だが、俺は、ファンタジー要素自体は、別段珍しいとは思わなかった。

主人公が、現実世界から異世界へと赴く系の、ファンタジーアニメは、ダンバイン以前から多くあったし、(例「ポールのミラクル大作戦」)そもそも、ファンタジーと呼ばれるものは、世界中の古いお伽話や宗教物語に、原形をおいている。ダンテの『神曲』や、ゲーテの『ファウスト』などは、西洋における、バイストン・ウェル的設定(=日常から非日常へ行き、教訓を得る)の原形であろう。バイストン・ウェルが、東洋思想の、輪廻転生に基づいている点を鑑みると、日本神話の、黄泉の国物語にも、原形を求めることが出来ると考える。

特に、ショウ・ザマの「落ち方」に、非常に似ている本を、ダンバイン本放送より遡ること10年前より、愛読していたので、第1話を見た時には、「あれとそっくりだなぁ」と思った。

あれとは、『ドレミファブック3』 世界文化社 昭和46年刊に収録されている童話、井上ひさし著『かわぐつとじどうしゃ』である。

※『ドレミファブック』は、絵本とレコードがセットになったシリーズで、A面には、童謡5曲、B面には、ミュージカル童話を収録。同シリーズは、レコードがCDに代わって以降も、同社から発行されていた。ミュージカル童話に出演しているのは、名声優ばかり、挿絵は一流画家ばかり、ミュージカル童話の音楽は、一流作曲家の書き下ろし、童話作者も、もちろん一流である。筆者は、物心ついた時に、絵と文学と音楽の素養を、このシリーズで身につけた。幼少期には最高級の芸術に触れるべし。

ミュージカル童話『かわぐつとじどうしゃ』のあらすじ

現代日本の少年が、自宅のゲタ箱をのぞくと。中から突然、プラモ大の飛行機が飛び出して、人形大のおっさんが、それを操縦しているではないか。おっさんの話しによると、

「わしは異世界の住人、じどうしゃこくの大統領である。わしの世界で、戦争が起きそうなのだ。君に、わしの国の味方になってほしいのだ。」(じどうしゃ国大統領役は、柳沢真一さん)

大統領の要請を聞き入れ、少年は、ゲタ箱の中へ。まっさかさまに落下し、叫ぶ少年。

「ウワァアーッ!」(少年役は、松島みのりさん)

んで、どすん、ハタと見渡すと、西洋のお城があり、古めかしい軍装の兵隊がいっぱい。中世ヨーロッパのような異次元空間だ。この「落ち方」といい、異世界の風俗といい、異世界の君主が、戦争のための協力者を、現代社会から招聘する設定といい、「聖戦士ダンバイン」にそっくりである。

しかも、じどうしゃこく大統領の宿敵は、かわぐつこくの女王!なのである。ただし、美少女ではない。おばさんである。(かわぐつこく女王役は、黒柳徹子さん)

この本は、幼児向けに、交通規則を教えるためのお話しである。自動車を開発・普及させようとする大統領と、歩行者の安全を守るため、自動車の普及を許さない女王との、いさかいを、少年が説得する。

「ぼくは幼稚園で、交通規則を習ったよ!ルールを守れば、仲直りできるよ。」

少年の指導の下、信号や歩道橋を作り、両国の戦争は回避された。大統領と女王は、少年にお礼を述べ、チョコレート製の砲弾に少年を乗せて、自宅のゲタ箱へと、どかーんとぶっぱなして、めでたしめでたし。

で、俺は、「聖戦士ダンバイン」が、『かわぐつとじどうしゃ』に影響されたんだろうとか、そんな瑣末な事を言いたいのではない。現代の少年が、異世界に赴いて活躍するお話しは、王道パターンだと言いたいのである。つまり、「聖戦士ダンバイン」とは、視聴者に、極めて受け入れやすい構成をしている番組なのだ。視聴者が、主人公に、感情移入しやすいのだ。だって、俺だって、ショウと同じ。バイストン・ウェルを見たのは、いまが初めてなのだもの。

初めてなの、だもの。そう…この日この時…俺の運命を決めるひとに、俺は、出会ってしまったのだ…

第1話の話しに戻る。夜陰のラース・ワウ城の中庭に落ちてしまったショウは、周囲の喧騒に耳をすませた。ゼット・ライト、バーン・バニングス、ショット・ウェポン、ドレイク・ルフト、ルーザ・ルフトの声が聞こえる。檻に入れられた、シルキー・マウの姿が、ショウの目にとまる。あ、女の人が、捕らわれの身に?注視させられるショウ。彼女を入れた檻が、空中に引き上げられていく…

この時、シルキーの緑色のドレスのすそが、檻の底から、垂れているのが、チラと見えた。たったこれだけの絵で、この檻は、底部が格子状であることを分からせてしまう。ショウの目に、この光景が現実の存在として映っていることを、絵で分からせるためだ。緑色のドレスを着た、妖精みたいな不思議な女性、シルキーが、「そこに本当にいるのだ!」と、檻とドレスの質感で表現してしまう、この作画の力は、いったいなんだ!リアリズムとは、こういう描写力を指して言うのである。

その時。

俺の耳に、俺の目に、あの、あの女性の声が、姿が、飛び込んできた。

彼女の名は、ガラリア・ニャムヒー。

次の項では、ガラリアさんと、聖戦士ダンバインが起こした「奇跡」について述べる。

 

2006年1月29日(日)