第9章 さらば、我が不滅の恋人 後編
バーン・バニングスは、ミズルの馬より一馬身先に、栗毛を疾走させ、アトラスの別荘の、大きな門をくぐった。走りながら、ミズルが副官に尋ねた。
「この門は、なぜ開けられているのだろうか。バーンはどう見るか」
バーンは、騎士団長を振り返らずに、
「おそらく」
と言い、そして振り返ってこう言った。その瞳は少し、怒りに燃えているように見えた。
「おそらく、アトラスが命じたのです。警備隊が巡視に来る、ここは開けておけと。彼はわたしが…我が軍が、援護に来ると思っているのでしょう」
ガラリアの幼馴染みは、ケミ城へ着くまでに、自分の感情を整理しようとした。ミズルと、バーンの警備隊二百騎は、アトラスの領地を走り、北西へ進んだ。道々、アトラスの領民を見た。平民たちは、荷車に家財道具を積み込んだり、農耕馬に俵を結わえたり、敵の略奪から避難する態勢でいた。女子供や、年寄り。戦時に真っ先に犠牲になる者を、家族を、守ろうとしている男たちを見た。
バーンは(アトラスの別荘の者たちも、兵士はケミ城へ向かい、非戦闘員は避難したのだな)とわかった。
領民たちは、バーン隊が、自分たちを襲わず、一路ケミ城へ向かって行くのがわかると、安堵したような、或いは、軽蔑したような目で見ていた。平民と、彼らの領主の敵軍は、略奪が無いなら、お互いを無視した。
このように、当時バイストン・ウェルでは、戦争は、騎士階級(為政者)が行うものであり、平民は、ただ犠牲になるか、逃げるか、或いは、物資面で商業的繋がりがあるのみであった。戦時において、平民は、強い方、勝った軍に付くしか、生きる術がないからであり、また、国有の宗教(倫理)を持たない彼らには、愛国心は生まれにくい。騎士道精神と呼ばれる、倫理観を持つ事を要求されたのは、騎士階級に限られていたのだ。
後年、バーンの領主は、この階級制度を打破し、平民をも戦闘員にしてゆく。税収人口の大半を占める平民を、戦争(為政行為)に参加させるという事は、自ずと、全国民の思想統制を兼ねる。これによって、戦争は、騎士の名誉職ではなくなり、全人類消耗の世界大戦へと変化するのである。
バーンは、ただ、真っ直ぐに前方を見て走った。賢い栗毛は、自分と騎手が、これから初陣を迎える事を察していた。19歳の騎士は、今、眼前に広がる沃野を見ながら、金色の麦畑を駆け抜ける自分を見ようとした。腰に携えた、真剣のさやが、鞍に当たる音が聞こえる。
わたしは、なにをしようとしているのだ。ビショットに組みし、アトラスを討つ。彼と戦うのか。なんのためにだ?それは、お館様の命だからだ。騎士バーン・バニングスの任務だからだ。
ドレイク様は、今日のこの事態を、前々から準備していたのだ。遠いケミ城で、今朝、ビショットが攻撃を始める事は、打ち合わせした上、そこへわたしを派遣する事も、全て、あらかじめ練られた作戦だったのだ。
「そうか、姫様の誕生日に、ニー・ギブンを呼んだのは、隣国ギブン家を、クの内乱に関わらせぬように…気付くのを、遅滞させるためだ。そして、祝宴の接待に、ガラリアを抜擢したのは、恋人への攻撃を、悟らせぬようにとの策、そうですな、ミズル殿!」
「そうだ、その通りだ、バーン。そして、お館様がその方に望んでおることは、」
青い長髪を、たなびかせて駆ける青年は、上官の言明を聞かずに、ただ一言、発した。
「承知!」
ラース・ワウのガラリアは、頬を紅潮させ、口元に笑みを浮かべている。18歳の女騎士は、13歳の姫様を先導し、赤い絨毯を歩んでいた。ピンクの制服の、耳元には、耳飾りがゆれている。後方のリムルは、ますますふくれっつらになり、スラリとしたガラリアの背中を、引き締まったウエストと、ふっくらした腰の曲線を見て、
(わたしだって、来年、再来年、誕生日が来て大きくなったら、あなたよりも、きれいになるんだから…きっと)
と思っていた。真紅のビロード製の、豪奢なカーテンの内側に来て、ガラリアは、リムルを振り返り、
「今、ルーザ様が、お客様にご挨拶しております。合図で幕が上がりますので、姫様は、威厳と気品を持ってお出まし下さい」
「…バカみたい、なんでこんな大袈裟なこと、するの」
「はい、それは、社交界デビューですので」
「そもそも、社交界ってなんなの」
ただでさえ、多忙で目が回っているガラリアは、土壇場になって無駄口をたたくなこのガキ、と思いながらも、社交界ってなに?の問いに、ハタと考えた。
「それはですな…姫様が、お年頃になられたので…ええと、先々の縁談のためにです」
「だって、あなたは、彼氏と、どうやって付き合い始めた?社交界デビューしたから?」
「デ、デビューは…してないですなあ。そう言われてみましたら」
「ガラリアは、アトラスさんと、正式なお付き合いをしているのでしょ?デビューしなくても」
「そうですな、職務で知り合って、彼に交際を申し込まれたので、お付き合いしてますな…」
「ほら見なさい、だったら、社交界なんて、なくてもいいんじゃない。なによ、この、垂れ幕、新人歌手じゃあるまいし、ヤダヤダ、バカみたい、見世物じゃないわぁ、わたしは!」
その幕がひらりとめくられて、恐ろしい金髪30女の顔がヌッと出たので、2人の少女は、縮み上がった。
「そなたは、身分が違うのだリムル!幕を上げる、ちゃんとせよ!」
ニー・ギブンと、キーン・キッス、中空のチャムは、幕が上がり、舞台に1人現れた者を見た。コーラルピンクの服を着た、紫色したショートヘアの女の子。両親の顔から想像していたより、ずっと可愛い少女だ。ミ・フェラリオと、小さな女戦士は、同時に、同じことを思った。
(悔しい)
なにが悔しいか。それは、彼女たちが慕う、若旦那様が、あろうことか、ルフトの姫様に、見とれたからである。「おぉ」なんて声をもらしたからである。「おぉ」とうなって身を乗り出して、瞳キラキラ、いやギラギラさせたからである。あたし以外の女の子を、そんな目で見た、若旦那様でなかったら、身分の列がなかったら、どんな重罪を課してやろうかと、思うのに実行できないという、悔しさである。
重罪人は、自らスタスタと、白い甲冑つきマントを着た少女に歩み寄り、額ずいて、微笑んで、スラスラと挨拶して見せた。
「リムル・ルフト様、なんとお美しい御方!ご尊顔を拝し、歓喜に耐えません。わたしは、ニー・ギブン、あなたにお会いするために、まかりこしました。あぁ、御手への接吻をお許し下さいますか」
紫色の髪を、うなじまで伸ばし、青い目を輝かせた13歳のリムルは、ニーの姿に、態度に、言葉に、
(え?この人は誰、この人がニー・ギブンですって?なんて涼やかな方!わたしのことを、美しいって言った!わたしもう子供じゃないんだわ、この方はわたしを、「そういう目」で見て下さったのだわ!なんて素敵なの、うっそーん、マジぃ?王子様だわ、わたしの王子様が、いらっしゃった!)
幕間で見ていたガラリアは、三白眼を、やぶ睨みにし、チッと舌打ちした。
「どうやら、お互いに一目惚れらしいな。姫様は深窓だからなぁ、初対面からあんな風に誉められたら、イチコロだ。アフロにバンダナした奇天烈な髪型の、安っぽい服装の、ニヤけた男の、あれの何がいいのかは、さっぱりわからんが、今の姫様の気持ちは、わかる。私もアトラスとそうだった…しかし、これは厄介な事になるやもしれん」
ガラリアと同じ判断を、会場にいたほとんどの者がわかっていた。母ルーザも、娘が若造に懸想したのをすぐ見抜いた。キーンとチャムは、相思相愛モードの2人を見て、ますます歯軋りした。ああ、あの子は、あのおにいちゃんに惚れちゃったねいと、見りゃーわかるのが普通だが、唯1人、全然わかってない者がいた。ハゲ親父である。
(ニー・ギブンは、礼儀作法は心得ておるようだな。ふむ、リムルもよう、姫らしく手を差し出す事を憶えたか。流石はわしの娘だ。城の行事は滞りなく済むようだ。さて、ケミ城の首尾はどうなっておるか…ミズル頼んだぞ)
と、ブツブツ考えている父親は、自分の娘が、手にブチューされて、お花を感じさせていることなど、夢にも思わないのである。
バーンの視界に、山城が入った。山頂に聳え立つケミ城は、バーンの騎馬隊を見下ろし、
<ここにアトラスがいるのだ>
と、彼に訴えていた。近づくと、だんだん、バーンの耳には、聞き慣れない音が、入ってきた。銃声であることは、わかる。だが、この音量は、聞いたことがない大きさだ。散発的な音ではない。山城の裾野を取り囲んだ、ビショットの軍勢を見ると、下級兵のほぼ全員が、手に手に、大きな銃を持っており、上官の、
「構えー、打てい!」
という号令一下、縦列し、一斉放射するのだ。ガァーン、ガァーンという、砲声が、規則的に響くのだ。銃砲隊以外の部隊を見ると、味方の的から外された部分に、城への上り口があり、そこでは、銃剣を自在に扱う部隊が、城門からなだれ込んでいる。ケミ城の古い砲台や、火縄銃隊は、ビショットの砲撃によって破られていた。既に、ビショット軍の一部は、城内に侵入し、応戦する王室親衛隊員は、次々と、銃弾に倒れ、銃口に備え付けられた剣に切られ、持ち場で倒れていた。
遠目のバーンに、弾丸を身体に食らっても、各兵が自分の持ち場から一歩も引かず、その場で屍となっているのが、見えた。見慣れた、アトラス配下の、薄茶色の軍服が、ケミ城のそこかしこに、転がっている。体温を失った肉塊は、敵兵に踏みつけられる石畳の、しみとなっていた。初陣の若者は
(これが戦場か。あれが、死骸か。死…わたしはアトラスの、あのような姿を見なければならぬのだ!)
圧倒的な火力の前に、ケミ城側の劣勢は明らかだった。あ、また1人撃たれて、死んだ…
戦慄した表情を隠し切れない副官を見やったミズルは、低い声で話した。
「バーン。このような銃撃戦は、それがしも初めて見る」
「…ミズル殿、騎士は、騎兵とは、双方の指揮官が、名乗りをあげ、切り込むものでは、ないのですか」
「古典的な兵法では、そうであるな。大将同士が宣戦布告し、剣にて切り合う。飛び道具は弓矢か、近来は単発式の火縄銃か、だった。あのような山城ならば、兵糧攻めにし、投降を呼びかけるのも、やり方の一つだ。かく言うそれがしが、その方らに学校で教えた戦術では、そうだ」
「銃器の組織的配備と、そしてあの、ライフルの先に剣がついている、あれは、銃剣ですな!本で読んだ事があるだけです。ビショット様は、あのような兵器を、いつの間に取り入れたのでしょうか」
拳銃や、ライフル銃は、アの国と近隣諸国には、まだあまり普及していなかった。前章で、ドレイクが言っていたように、平民の猟師がガッター等の強獣捕獲に使うか、騎士階級の令女が、護身用に、ピストルを持つぐらいの普及率である。ミズルは、銃剣と聞いて、ふと、自分の息子、セザルの、生意気な物言いを思い出した。アの国の士官学校は遅れている、実戦教科に、射撃も、銃剣術もないじゃないか、と。
なるほど、こうして見ると、息子の言も、一理ある、と父ミズルは思った。火器か!真剣での一騎打ちは、もはや、過去の遺物になりつつあるな…
(そうだ、一騎打ちは、騎士道精神の賜物だ。その精神こそが、いにしえのものと、なるのだとしたら…)
ミズルは、挨拶に来たビショットの部下に敬礼し「助成仕る」とだけ言い、手綱を握り締め、じっとケミ城を見つめるバーンに、命令した。
「バーン・バニングス。その方は騎馬隊の半数、百名を率いて、城内に攻め込め。あの」
と、油煙を上げるケミ城を指差し、
「城の正門からだ。名乗りをあげるを、忘るるな。入城は、それがしと、残りの百騎が、援護する。」
それを聞いたビショットの部下が、なにか言っていたようだが、バーンは聞く耳を持たず、
「了解致した。感謝します、ミズル団長!」
言うや否や、バーンは栗毛のあぶみを強く踏んだ。栗毛は、ヒヒーン!といななき、バニングス隊長の初陣を称えたと、ドレイク軍警備隊員たちは、思った。
夕刻を迎えたラース・ワウで、夕餉の準備に忙しいガラリアは、馬場の横を通りかかった。すると、厩舎から、ただならぬ鳴き声がするので、なんだろうと入り、中を見て驚いたガラリアは、愛馬に駆け寄った。
「どうしたのだ、なにをそんなに鳴くのだ?」
大人しいはずの、ガラリアの赤毛の馬が、胴体を柵にぶつけ、後脚をさかんに蹴り、出せ出せと、ヒヒン、ヒヒン!と鳴き狂っているのだ。ガラリアが赤毛の首を抱いてなだめてみたが、それでも赤毛は、悲しげに<泣き>、暴れている。ここから出せと。
「おい、誰か、誰か来てくれ!馬がおかしいのだ」
ガラリアの声で、ハンカチの青年が駆け付けた。言うまでもなく、年嵩の彼は、この美しい少女に恋焦がれているので、彼女が呼べばすぐに来てくれる。そしてガラリアは、それを充分に知っている。青年は、
「赤毛が、こんなに興奮するなんて、妙だな。どこかを、蜂に刺されでもしたかな」
「なんでもいい、ここはお前に任せる。頼んだぞ」
後を委ね、彼の愛しい女の子は、祝宴会場へ向かった。彼女の白いうなじを、見送ると、青年は、赤毛を抱きしめ、ささやいた。
「どうどう…お前どうしたんだ?…恋しい人を、助けに行きたいみたいな顔だね。お前のいい人は、国境の警備に行っているだけだよ。暗くなったら、戻って来るから、大丈夫だよ」
赤毛の馬は、雄であり、バーンの栗毛は雌であり、この仲良しの二頭は、つがいとなっていた。赤毛は、妻の危険を察して、暴れていたが、青年の語りかけを聞き、動作をやめた。そして一声、ヒヒーン!と、雄叫びした。
「馬の声が聞こえたわ。なにかしら?悲しそうな声。」
とつぶやいたチャム・ファウに、リムルは、はしゃいで喋りかけていた。
「チャムは耳がいいのね。わたしには、なにも聞こえないわ。ねえ、キーン、あなたは聞こえた?」
「聞こえないわ。チャムはね、耳だけじゃなくて、目も利くのよ。すごいんだから」
パーティー会場で、リムルは、同じ年頃のキーンとすっかり打ち解け、初恋の男性と見つめ合い、夢中でお喋りした。彼女は、今日の誕生日、幸福の絶頂にあった。初めて飲む、赤いお酒の味も、今日のために新調した服の、袖の感触も、心地よい。
こんなに楽しい日ってなかったわ!ずっと、友達のいない暮らしをしてきた彼女にとって、今日の出会いは、晴れがましい歓喜であり、そして今後の人生を変えていくものであると、リムル自身が予感していた。
キーン・キッスとチャムは、ニーのお気に入りになったリムルへの嫉妬は消えなかったが、喋ってみると、ルフトの姫は、身分の上下を奢らず、気安く話す子だったので、友達になれそうね、と思った。
明るく笑う我が子を見ながら、ドレイクは、歓談の席から、度々離れた。領主は1人で、城の北の壁際まで行き、小窓を覗く。窓の外は暗く、監視兵が1人だけおり、お館様に、ミズル殿の伝令はまだ来ませぬ、と手短に報告した。そうか、と、ドレイクは、また、そ知らぬ顔をして宴席に戻るのだった。
隣りに腰掛ける、夫の顔に、変化のないのを見たルーザの方が、じれて、ひそひそ、耳打ちした。
「お前様、まだなのですか、もはや、夜だというに。ミズルとバーンはなにをしておるのです」
「黙れ。全てが片付き、警備隊が帰還するまで、この件は内密にせよと言いつけたであろう」
「わかっておりますわ」
と、ルーザは静かに言い、続く言葉を飲み込んだ。楽しみだこと!今日は、まさに門出の日となろう!
栗毛は、騎手に乗り捨てられたが、燃え盛る城内から、逃げずに、主人が戻るのを待っていた。馬の体は、刀傷だらけだが、黙って、中庭に立っていた。ひづめのわきには、人と馬の死体が、折り重なり転がり、樹木はチリチリと音をたてて燃えている。軍馬の役目は、主人を乗せて、居城に帰ること。彼女は、敵の弓矢と、味方の銃弾を避けながら、傷の痛みをこらえながら、懐かしいラース・ワウに帰ることを、思い描いていた。
雌の栗毛は、この建物に切り込んで行った、わたくしのご主人も、同じ気持ちだろうと思い、焔立つ天主を見上げた。
ケミ城は、出火し、紅蓮の炎に包まれていた。漆黒の夜陰に、赤々と燃え上がる山城は、遠目にもはっきり見えたことだろう。
ビショットは、マントつきの鎧に、いつもの帽子をかぶっている軍装で、城壁の外に陣取り、
「ハッハッハ!父と兄の、趣味の悪い建築が焼けて結構なことだ。あの薄茶色の煉瓦は、土台から全て打ち壊してやるわ。新築の城は、白い塗り壁がよいかのう!」
と、老臣に高笑いした。この老臣は、ビショットが幼い頃からの近習であった。腰の曲がった男は、先代の王が築き上げた城が、焼け落ちていくのを見つめた。城内の最前線は、すっかり、ドレイク軍に任せて、高みの見物を決め込むとは、なんと無慈悲な…と、老臣は思ったが、言上はしなかった。
バーン・バニングスの甲冑は、大勢の敵兵の、返り血を浴び、既に赤く染まっていた。彼の長髪にも振りかざす剣にも、血のりがつき、脳裏には
(最初に殺した男の死に顔は、焼きついたと思ったのに、もう忘れた。何人殺したのかも、途中から数えることができなくなった)
という、うわ言が、浮んだ。
わたしは、次々と敵兵を殺している。さっきまで、雄々しく闘っていた相手が、血をふき出し、倒れ、息絶える。人の死とは、このように、残酷で、しかも簡単なものだったのか!騎士の腕前を見せるとは、道場で練習した剣術で、若き人間の命を奪うことだったのだ。こんなにも、簡単にだ。わたしは…敵を倒して満足するのが騎士だと、思っていた。
(敵はこの、)
カン!と、バーンの切っ先が、敵兵の甲冑に当たった。
(敵は、この者ではなかった!)
バーンは甲冑をまたひとつ、切り裂き、人間の心臓を突いた。
(敵は、己だ、わたし自身だ!そうだ、あの男がそう言ったのだ。負けたくない、あの男には!)
武者震いに潤むまなこが、探す者は、ただひとり。顔見知りの、クの親衛隊員と、剣を交えながら、赤茶色の瞳が、バーンが叫んだ。
「アトラスはどこだ!」
「行かせぬわ、バーン・バニングス、この裏切り者!謀反人の手下に成り下がった、卑怯者が!」
こう言われて、若い心は、一瞬ひるんでしまった。裏切り者だと?卑怯者?ちがう、ちがう…任務なのだ、だって、わたしは、彼を、
(わたしは、彼を、アトラスを、心底から憎んでいるのではないのに)
隙のできたバーンに、クの兵の剣が突かれようとした時、横から、青紫色の軍服が、飛びかかり、バーンを裏切り者と呼んだ兵は、ミズルによって死を迎えた。血しぶきを顔に浴びたミズルは、
「ひるむな、バーン・バニングス!なにをしておるか、その方は、戦士なるぞ!」
「…はい、団長」
敵と味方の、死者が累々と転がる、長い階段で交戦するミズル・ズロムは、階段の行き止まりにある、大きな扉をみつけた。クの兵らは皆、その部屋に行かせまいとしている。
「あれが王室だ。ハッタ王と、親衛隊長はあそこだ。行けい、これはそなたの任務である」
「…承知!」
ケミ城から遠く離れた、ここは、クの国の東北に、国境を接する、ミの国の王城、キロン城である。うら若い王妃、パットフット・ハンムは、小さな娘をようやく寝かしつけ、子供部屋のベッドに横たわり、うとうとしていた。
パットフットの娘は、寝つきの悪い子であった。もう10歳にもなるのに、1人ではベッドに入れず、母が子守唄を歌ってあげたり、お伽話を聞かせないと、ぐずって、眠れないと訴えるのだ。母親は、この子は、成長が遅いのかしら、と時々不安になったが、夫ピネガンは、心配するなと笑った。
パットフットが、うたた寝から、熟睡に移ろうとした時、枕を並べた子供が、
「きゃぁー」
と奇声をあげたので、母はびっくりして飛び起きた。見ると、娘も上体を起こしており、桃色の髪の毛を両手で覆って、泣きじゃくっている。
「エレ、どうしたのです」
白いパジャマを着た、ミの王女、エレ・ハンムは、こめかみをおさえて、泣いて訴えた。
「お城が、お城が燃えているの!真っ赤に燃えてる。ひとが、いっぱい、死んでるの!」
「怖い夢を見たのね、エレ。大丈夫よ、また寝たら、もう怖い夢ではなくなります」
エレは、ううん、ううん、とうなり続け、左のこめかみを、痛そうにおさえ、そしてベッドから降りて、白いムートンのスリッパを履こうとするから、パットフットは、驚いて、寝なさいと止めた。エレは、
「だめ、知らせなきゃ、行かなきゃ、燃えたお城の人が、逃げてくるわ。助けてあげないと、あの人たちは、殺されてしまうの!」
「それは夢のお話しでしょう。エレ、だめですよ」
「お父様は、どこですか、お父様に言うのう!」
「今夜はお仕事で、国境の砦に行っておられます。夢のお話しは、明日になさい」
くにざかい、と聞き、エレは、少し安心したようで、スリッパから素足を引き抜いた。パットフットは、悪夢を本当だと思い込むなんて、やはりこの子は、精神の発達が遅いのだと考えていたが、エレは、布団をかぶり直しながら、なおも訴えるのだった。
「国境に、お父様がおられて、よかった。あそこからなら、燃えてるお城が、見えるもの!ねえ、お母様。今夜、お父様が助けた人たちは、わたしが大きくなった時に、わたしを守ってくれるのよ。」
パットフットは、はいはい、そうね、ほら寝なさいと言って、あくびをした。
バーンは殺した。進むために殺した。軍事演習で、笑いあい、酒を酌み交した、クの親衛隊員たちを、切って進んだ。わたしの敵兵は、このわたしが、束になってかかっても倒せない相手とわかっても、一歩も引かずに立ち向かってくる。彼らは口々に言う。
「我らがアトラス隊長の御為!」
その言葉をつぐませるため、バーンは殺した。…どこだ。出て来い、アトラス!わたしが攻め込んで来ている事は、わかっているはずなのに、何故、彼は現れないのだ?
ケミ城の頂上の塔へと続く、大理石の階段には、倒れた、多くの薄茶色の軍服が、血の赤に呑まれて、まだらの敷布となっていた。バーンとミズルは、目指す大きな扉を開いた。
王室に、先に踏み込んだバーンは、
「うっ」
と、声をあげてしまった。ここに至るまでに、たくさんの屍を、この手で作ってきた。断末魔の青年が、血の落涙をするのも、見た。これ以上、悲惨な光景は、見ないと思っていたのに、眼前に在ったものは、バーン・バニングスを、なおも慄然とさせるに充分であった。
塔の頂上にある部屋なので、さして広くはない王室だった。真紅の絨毯が敷きつめられた床の、正面奥に、金箔の玉座があった。椅子の後方一面には、緑色のカーテンが垂れている。この王室に、唯一つのその椅子に座っているのは…いや、既にこと切れた遺骸を、わざわざ座らせたのだ!
バーンの背後のミズルが、
「ハッタ王だ、なんだ、あの皮膚は?」
玉座に腰掛けた死人の顔面は、赤紫色に腫れ、痩せていたハッタ王の面立ちは、風船のように膨れ上がっている。片方の眼球は、飛び出してしまったのを、元通りにねじ込んだようだ。口は、誰かが、閉じさせようとしたのだろうが、締まり切らず、舌が飛び出ている。その口元は、流血したのだろうが、誰かが、懸命に拭き取ったらしい跡がある。
服は、王侯の正装で、整っているが、これも、明らかに、死んだ後に着せた、死に装束だと見てわかった。長袖からはみ出す両手も、赤紫色に、醜く膨らんで、爪からも流血した跡がある。
さしものミズルも、この異様な死に様に驚愕し、
「王は、これは、弾丸や剣で死んだのではない、毒物だ!服毒だ」
ミズルは、玉座のわきにもうひとり、同じ症状で死んでいる者をみつけた。仰向けに寝かされ、丁寧に、顔に白いガーゼをかけられている。バーンは、それがアトラスかと思い、
「ウァッ!」
手のひらで両目をふさぎ、叫んでしまったのだが、しゃがみこんだミズルが、
「こちらは白衣の老人だ。侍医らしいな、毒を飲んで自決したのだろうか?」
と言ったので、気休めな安堵を得た。彼に、毒などで、死んでもらっては、わたしはやりきれぬ!バーンは、彼らしくない、上擦った声で、呼んだ。切なげに、まるで恋人を呼ぶように、叫んだ。
「アトラス、どこだ、どこにいる?アトラス!バーン・バニングス見参した。出て来い…アトラス!」
「わたしはここだよ、バーン」
それは、なんと、相変わらず静かな話し口調だっただろうか!涼しげな声だっただろうか!懐かしい、兄のように、バーンに語りかけたことだろうか。その声は、玉座の後方、カーテンの向こうからだった。薄茶色のマントをなびかせ、黒い甲冑をまとった、彼は、緑色の垂れ幕を、<肩で>開けて、現れた。ゆっくりと歩いて。しかし、バーンとミズルは、ようやく探す者を見つけたのに、
「・・・・・・・・・」
声も出ず、息をのんで、後ずさりしてしまったのだった。
アトラスには、右手がなかった。肩の先から、なくなっていた。軍服の袖を結んで、止血していたが、黄金色に輝いていた、彼の頬は、もはや青白くなっていた。青かった瞳の、右目は、白目が内出血し、虹彩が白濁し、焦点が合っていなかった。口元や、左の袖口からも、流血しており、右手の外傷だけではなく、甲冑で見えない胴体にも、深手を負っていることが、ひとめでわかる。
それは、あのきらびやかな美青年では、なかった。彼に出会う誰もが、心奪われた、その美しい容貌の、痕跡として残っていたのは、つややかな黒髪だけだった。
バーンは、そのアトラスが、ちぎれた自分の右腕を、左手で、掴んでいるのを見て、彼より青ざめてしまった。すると、親衛隊長は、いたずらっぽく笑って、切断された自分の腕を、もてあそんで見せるのだ。
「ああ、これはね、弾がね、当たったよ。…陛下が、永き眠りにつかれた今朝、銃声が聞こえ始めて…ハハハ、総指揮官なのに、部下より、先に撃たれるとは、こういうところが、それがしはぬけておるかな。壊死してしまうから、自分で切り取ったのだ…腕って、結構重いね」
と、アトラスは、声の出ないバーンの足元に、その、ちぎれた、固まった血がどす黒くこびりついた、右腕を、ぽいと投げた。バーンの肩とガラリアの素肌を抱いた右腕は、ごろん、と、バーン・バニングスの足元に転がった。
既に、血みどろの戦闘をくぐりぬけて来たバーンが、心底、恐怖に震えたのは、立ち上がる事すら、おぼつかないはずの重症の男が、まるで右手など、はじめからなかったかのように、背筋を伸ばし、凛々しく立っているからだ。軍靴を鳴らして歩み寄り、微笑みかけ、朗々と語るからだ。
そう、初めて会った閲兵式の日と、まるで同じ仕草の、紳士だったからだ。どうして、笑えるのだ?!
「貴公が…来るのを、待っていたよ、バーン。きっと来ると信じていた…だから、あの城門は開けさせておいた。ドレイクが、我が方に付かぬであろう事も、わかっていたさ。陛下が毒死されてすぐ、王弟殿下が仕掛けて来たのだから。貴公とは、こうなる運命にあったのだと…わたしは、冷たくなられた陛下とね、今まで語り合っておったのだよ。」
ミズルは、冷静に戦局を読みながら、副官の背中を見た。青い長髪が、震えている背中。
(親衛隊員たちは、王の屍に寄り添う、瀕死のアトラスを、隠していたのだ。王とアトラスの状態を知れば、ビショット軍は勢いづいてしまう。彼はバーンと闘うために、そのために、逝かずに待っていたのか、あの体で!…いかん、奴は、もはや手負いの虎だが、バーンは、気迫負けしてしまっている)
王室の奥から、アトラスは、こちらに歩みつつ、少し低い声になり、話し続けた。
「待つのは、わたしだけでよかったのだ。陛下亡き城なのに、わたしの為に、多くの部下が…」
片腕の男の、青色が残っている左眼が、光った。
「ま、貴公を倒すに、両腕は必要ないだろう、バーン・バニングス。利き腕は、捨てたから、青二才と手合わせするには、丁度良い程度かもしれぬな」
「…な、なんだと」
とバーンがうなった瞬間、アトラスの優しい目つきは消え去り、眼光が修羅と化した。彼の全身が、殺気で、一本の焔となった。彼は、残された左手で、スラリ、と帯刀を抜き、切っ先を<宿敵>に向けた。
バーンに向けた真剣と、アトラスの片目が、激しい怒りによって雷(いかずち)が如く、光った。
鬼神だ。烈火が如き、怒りの鬼だ。
アトラスが自分を、こんな、憎悪の目で見つめたことはなかった!バーンも剣を構えたのだが、その手はまだ、震えていた。わたしは、彼からの信頼を裏切り、彼の部下を殺し、だからアトラスは怒っているのだと、<未だ蒼い男>は、考えていた。
だが、アトラスの、次の言葉が、若い男の迷いを、霞が晴れるように消してくれたのだ。黒髪の騎士は、鋭い声で、こう言い放ったからだ。
「来い、バーン!…お前に、ガラリアは、渡さない!!」
2003年12月20日